この世界に捧げる花束

いつか来てしまうその日までの備忘録

備忘録なのさ

 

2021年9月1日、今日は2021年9月1日。信じられないことだが2021年9月1日。絶望しか感じない毎日もいつの間にか9月まで来てしまったようだ。

 


このブログをすっぽかしていたのは事実。書きたいことも書くべきこともたくさんあった。だけど書けなかった。その理由はなんと言っても“気が乗らなかった”。ただそれだけ。なんとも自分らしい。

 


でも書いてなかった数ヶ月を振り返っても、毎日しんどかったことしか思い出せない。確かにこの時期なので、どこにも行けず、買い物も淡々と済ませて店を出る。町の商品券があっても結局混んでて思うように使うことが出来ず余らせてしまった。家ですることといえば少し前にダウンロードしたSwitchのAmong us。寝ても覚めてもAmong us。仕事で嫌なことがあっても家に帰ってインポスターになりキルする。それで軽いストレスは発散。チョロいメンタルだぜ。

 


チョロいメンタルなのかはさておいて、数年前に「お前は良くも悪くも人に興味ない」と言われたことがあったなぁと。今実際普段話す人が職場の人と家族しかいなくなってしまったが、その当時の自分自身はあまり気にしなかった。なんでこの言葉を思い出したのか。それは「タカシナはこれ以上傷つきたくないとき心のシャッターを閉じて誰にも打ち明けず誰とも話さないことがある」と言われたからだ。そう言ったのは何かと面倒を見てくれている職場の先輩。その言葉を聞いたとき心の扉が壊れる音がした。跡形もなく。自分では「話すことがなければ話さない」と考えるようにしていた気持ちをここまで具体的に言われたのにはびっくりしてしまった。「お姉ちゃんだから」と言われて育ってきて四半世紀ちょっと。先輩も私と同じような境遇で育ち、何となく気にかけてくれていたようだ。そんな出来事があってから以前より気にかけてくれるようになった。いや、気にかけるようにさせてしまったというのが正しいと思う。

 


生まれてから物心ついて今の今まで、人付き合いが本当にダメなほうだと自分でもよくわかる。と言うと関わってくれてる人に申し訳ないと思うが、こんなはずじゃなかったと思うことが多々ある。人付き合いにせよこれまでの人生にせよ。こんなこと言うとまた先輩に「自分のことを卑下するんじゃないよ」と言われそうだ。でも素直に人付き合いはダメだ。なのに人の温かさを求めていたり。人に期待するもんじゃないと素直に認めたのは今年になってから。前よりかはさっぱりした性格になれたのかもしれない。高校時代にやっていたアメブロの名前は“絶賛自分迷子中”だったなぁと思い出した。性格も含めこれって治るものなのか?治る治らないが分かる前に人生終わりたいんだが?

 


このブログは“いつか来てしまうその日までの備忘録”だ。そのカウントダウンは少なからず自分が知っている…はずだ…。コロナの影響もあって何もかも楽しめない毎日が続いている。それはこの先もしばらく続くであろう。【幸せとは何かを考え始めると不幸が始まる】以前Twitterか何かで見た言葉。幸せについて考えることはあまりないけど、やっぱり自分が向かうべき場所は終なんだろう。絶望の階段を毎日登っているわけだ。

 

 

 

 

 

 

 


メメントモリ―自分が必ず死ぬことを忘れるな

 

 

 

 

 

そんなところ

 

 

 

なんかだるくて一旦停止にしてるインスタも

 

いろんなものをごちゃまぜにしてるマイリストも

 

それをBluetoothで繋げて通勤する毎日も

 

延ばしに延ばしまくってやっと重い腰あげたタイヤ交換も

 

冷蔵庫に入ってるスイーツを見てニンマリする今日も

 

全ては自分次第で大きくも小さくも変えれるのに

 

今日もどこかの歯車が噛み合ってないんだよな

 

そんなちっぽけなこと

 

目の前に見える海に比べれば

 

無限に広がってる宇宙に比べれば